仕事をいつ引退するかは人によって違うだろう。まっとうな社会生活を営んできた人は60才くらいではまだまだ体力的にも精神的にも第一線で活躍できる人が多いと思われる。
定年になって仕事から遠ざかると男性の場合は特に社会との繋がりが希薄になって必要とされていた自分が一気に無用の存在に感じられてそのギャップにしばらくは茫然自失に陥るのではないだろうか。
仕事人としての役割を終えて年金生活に入り、毎日が日曜になると最初はその自由さを楽しいものと感じるであろうが、しばらくすると社会から必要とされていない疎外感に苦しめれられそれを吹っ切ることから安定なシニアライフが始まるのだろうと思う。
やはり人は生きがいというか、それほど大袈裟でなくとも何らかの生きている証や意味を見出していかないと落ち着けないのではないか? これは長く働いてきてそれが当たり前であり、かつ大なり小なり何らかの役割を果たしてきたという自負があると尚更だろう。
仕事人間の性とでも言うべきなのかもしれない。急にその姿勢を崩して無用の長物になり下がるには時間を要するに違いない。もちろん病気や身体の不具合など健康問題がまだないという前提ではある。毎日元気で何もすることがない生活を享受することはそう容易いことでないように思われるのだ。
功成り遂げてもう余生をゆっくり過ごしたいとう方もいるだろうし、社会がその能力を放置せず第一線に立ち続けることを余儀なくされる方も一部にはいるでだろう。しかしながら大抵の人は仕事社会から用無しとして追い出されることになるのである。
残念ながら多くの人が元気でたくさんの時間を持て余すことになるのだ。したくもない仕事を見つけて老体に鞭打って小銭を稼ぐ人もいるだろう。しかしながら、健康寿命はもうすぐ手の届く距離にあるのだ。残された限られた時間をどう有意義に過ごせば良いのか。
死ぬ間際になって思う、自分の一生は満足だったろうか、悔いはないか? 人が生きると言うことは、健全な肉体と精神を有しているなら、世の中に何らかの貢献をするということが死に際に後悔せずに済むことではないかと思われる。
定年前の仕事人生で大したこともできなかったのに、老人になってまでそうした思いを持つのは確かに馬鹿げたことかもしれない。残された時間をどう使うか、それは人それぞれであっていい。
私の個人的な考えは老後になっても身体と頭がまだ元気がうちはやはり何か生きがいや使命感を持ち続けたいということだ。少なくとも社会との接点をしっかり持って常にアンテナを張りつつ自分なりの自分が好んで取り組めることで社会や人に何らかの影響を与えていきたいと思う。
ただ、具体的にどうかというとまだ模索中と言うしかない。社会と関わるという意味では現代はネットという便利な道具がある。SNSなどに親しんでだた見たり読んだりという受け身ではなく主体的に情報発信することが重要に違いないと思っている。